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このページは愛川町議会議員玉利まさるのホームページです。
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                   編集子 K



2020年4月4日土曜日

つぶやき

● 3月 末日です。「四月は残酷な月です」からはじまるのはT・Sエリオットの詩だが、ぼくにとり、この3月は考えさせられたなぁ。コロナの件でない。妻をなくし25年、サリン事件25年、さきに逝った宮城まり子さんの「ねむの木学園」の子ども絵に感動したのも25年前、などなど。
 他に、3.11や議会のバタバタ、やまゆり判決などあったし。

● 一読、脈絡のない話だけど、25年まえの3月、妻はがんの末期で、掛川(静岡県)で病床にいて、サリンを悲しみながら何を思ったか呟いた。「まり子さんも近くにいるらしいよネ」。知的障碍者に関心のある妻は子どもたちの絵を見たがっていた。
 そして、ぼくはかれらの絵を見て、想った。純粋で無心な人たちの絵ってなんとすごいんだ、もしかしてピカソがアフリカの絵に感動したのと似たショックであった。うん、サリンはむろん、やまゆりはもちろん生きる価値を知らない人による大量殺生だ。無知はそれ自体が犯罪になる場合もある。

● そして3月といえば、第3土曜日、ぼくは、津久井のレストラン「風のほとり」にいて、食事をしていた。と、3人組のライブがはじまる。何、何、なんなの。曲が強引なほどぼくの心に飛びこみ、ぼくを揺する。その3人のグループ名は「トイボックス」、聞いたこともない。その筈だ、今日がライブは初公開でした。なるほど。ぼくは50年ほどまえ偶然ピンキラ(ピンキーとキラーズ)の初演奏にでくわし、そのオーラと熱さに打たれた記憶がある。「エモイ」というのはこんな場合に使うのか。ねむの木の絵も、トイボックスの3人組も、ピンキラも純粋と無心はエモかった。
 というわけで、フェイスブックにトイボックスの写真を載せました。

コロナに想う(1)「感染症の日本史」もどき

 豪華客船の感染にはじまったコロナへの関心は、その拡大とともにイタリアへ、フランスへ、スペインへと移った。その延長で、カミュの「ペスト」が再読され、ついでに若者にラテン文化論も出はじめたとか。
 気分は分かる。ぼくもかつてそうだった。カミュはサンテクジュペリやランボーに並んでよく読んだ。イタリアにコロナが流行ると、アイツらハグが好きだし、濃厚接触民族だしと思った。フランス人に増えると不倫が好きだし、そのクセに手を洗わないし、風呂嫌いだしと思い、ついでにちょい100年か150年か前までヴェルサイユ宮殿にトイレのなかったことを思いだす。うん、そういえばナポレオンも感染症(タムシ)で女にもてないので金と権力でもてることを夢みたとも言われた。
 ともあれ、そんなしだいで、黒死病(ペスト)で民族が滅びそうになった歴史はラテンにとって何回目だったかな。
 そう思う一方、また想う。ヨーロッパの感染の話もいいけれど、かくいう日本の場合はどうなのよ。わが国がウイルスで人口を減らした記録はどうなのよ。若者よ!それがあるんだなぁ。ぼくの聴きかじりだと江戸時代だけで3回。
 これは流行ではないけど、ぼくの青年時代つまり50年前だと、韓国や台湾へ観光するとついで土産(みやげ)に性病をもらってくる人はかなりいた。60年前は梅毒で鼻を落とした人をたまに見かけ、90年前は母の話しだとよく見かけ、100年前をこすと、ハンセン病(らい病)の人も多く、結核(ツベルクル)が人口減に響きそうになる。そして150年以上も前となればいろんな疫病が日本の人口を抑えていたようです。
 その証拠というか名残りはいまも日本の各地で見られます。
 まずは見落とされているほう。たとえば愛川町の八菅山(厚木市の鳶尾山)では、頂上に小さな社(やしろ)があります。厚木市荻野の古老が古老から聞いた話によれば、江戸の末期に相模にコレラが蔓延し、かかった人が生きたまま鳶尾に捨てられて、かれらの魂をなぐさめるために建てられたのがその社だ、と言う。じっさいがコレラかどうかは不明です。コレラ菌がコッホによりガンジス河で発見されたのは1800年代の末期だし、とにかく、疫病が大流行したのは事実です。
いや、若い人たちが知っていて、たぶん体験もしている古代からの疫病対策の名残りもあるのだ。正月の第二週くらいの行事、どんど焼です。そう、団子を木の枝に刺して焼き、食べるとその年は風邪にかからないという、あれ。どんど焼きの呼び方も催し方も地方によりあるいは時代により異なるけど、元は道祖神の祭りで、道祖神といえば神さまで、ふつう猿田彦。古事記や日本書紀ではアマテラスの命令で天から降りてきた(天尊降臨してきた)ニニギを案内した神さまです。だからネットでは道開きの神であり、全国の辻にあるので辻神さまとも出てきます。問題はなぜ辻にあるのか、猿田彦は。元は疫病が村落に入ってくるのを塞ぐ神で、だからサイ(又は)セイの神とも呼びました。話は戻って、どんど焼きの団子は無事な一年間のお礼にその道神さまに供えるものでした。それが、いつの間にか団子は子どもが食べて、猿田彦はそれを指をくわえて見るだけになりました。日本にもコロナがのさばるわけなのだ。
 まぁ、最後は悪い冗談として、若者よ、君たちはそんなこと知っていましたか、知っていて初詣でしましたか。
 そもそも日本の歴史は、水害と山火事とそして感染症の歴史でもありましたが、私たちの祖先に防ぐ手段はありません。ただ畏れ、祈るしか。やがて考えました。そうだ、この世は人間のものでない。月も火も水も木も・・・。いや、月火水木・・・すべては神そのものだ。たとえば台風は風の神が怒っているという具合に。もっと慎ましくしなきゃ、もっと感謝しなきゃ、祈らなきゃといった具合に。
 まぁ、雑把にそのあたりが神道のはじまりですが、それは宗教というより文化とか儀式に近いものだったかもしれません。たとえば参道を歩くとき左端をとおり神への遠慮の気持ちを高めてから手洗場で手と口を洗います。それは宗教と同時に文化だったかもしれません。ヴェルサイユにトイレがないと書いたけど、仏教の人がトイレを導入したのは奈良時代。そして神道の人がトイレをご不浄(きたないもの)と呼んでいたのはさらにむかしとか。
 手を洗う、口を注ぐ、トイレを使う。大昔の日本人は感染症対策をしていたのです。中国や韓国の人がトイレに行ってから手を洗うふりとは大違いですネ。
 長くなったけど、カミュの「ペスト」を読むのもいいんだけど、若者よ、この機に日本の文化を見直そうと迷想するのでありました。