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このページは愛川町議会議員玉利まさるのホームページです。
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                   編集子 K



2016年4月21日木曜日



●3月21~27 ~犬はあるけど~

 今週は何故か出歩きが重なった。しかし、犬も歩けば棒に当たるというけど、ノラ犬はあたっても大した収穫がないという話体験です。

 たとえば、月曜は孫が「ご入学」という地球儀や世界物知り地図の買い物。一応は世間並みの爺さんぶりだが、普段接触が少なく、孫のことはよくわからない。それで買い物をして自己満足。その俗物に呆れる。

 火曜は市ヶ谷でがんばろう日本の方と意見の交換。ついでに棋院で一局打って気分転換。

 金曜は議会最終日。全員が賛成討論で面白くない。とくにある女性、町への評価、感謝、敬意の連発でなにそれ。町民に代わりチェックする立場がゴマスリではなにか見苦しい。

 土曜は横浜で「主権者教育を考える」の集い。18歳選挙権の折からです。が、何、その内容。今の大人が守れない主権者の責任を18歳に押し付けてどうする。自己反省を訴えろ。

 まだあるが、こんな具合でありました。

 つぎに大きなニュースは、ベルギー・テロだが、「日本はヘンに首を突っ込み、巻き込まれるな」の一言で終わりにし、気になるのは児童相談所の不作為による中学生の自殺です。そもそも何のために児童相談所に親から子を離す権限を与えたか。なぜそれが機能しないか。事あるごとに騒ぐより、児童相談所の体質を問えよ。



●オマケ ゲス考

 この頃、メディアに「ゲス」という言葉がしばしば登場する。たとえば「乙武さんが不倫したとか。あいつはゲスだった」といった具合に。その使い方で良いのだろうか。

 因みに「ゲス」は下種と書く。時に下衆とも下司とも書く。元の意味は、身分の低い人、あるいは知能の劣る人。そうした人たちは品性に欠ける想像をしやすい。そこから転じ、末梢なことに気を転じ、余計なことに品性に欠けた疑いをするひとを下衆という。「まあ、乙武さんイヤラシ―」などの使い方を「下衆の勘繰り」といい、これが本来の言葉の使い方です。したがい、ゲスは乙武さんではなく、変な想像をした人たちのほうであります。して見ると、ゲスなのは騒ぐメディアです。

 そもそも乙武さんが身分が低いとか知性にかけると誰が言えるか。まして不倫なぞ、個人や夫婦の問題。その事情なぞ誰もわからない。仮に、本人が認めているから不倫があったとし、それがいけないかもわからない。ぼくの知人に10年以上、妻に性交渉を拒まれ不倫した。それが責められるか。ある女性は夫の暴力と異常な性癖から逃れるために不倫した。責められるか。また妻が浮気の連続で夫が不倫した。このように人さまの事情は千差万別だから下衆の勘繰りなぞしたくない。エラソーに、あるいはウラヤマしさの裏返しみたいに。

 そもそも乙武さんは四肢が欠ける。にもかかわらず仮に5人の彼女がいたら、どう思うか。かれの行為は、どれほど同じように障害を抱える人たちを元気づけたことなのか、と頼もしく思う。障害者はきっと「手足がなくても、人間的に魅力があればモテるんだ」と勇気づけられた、と思う。

 じっさい、日本には障害者のための性的ボランティアの機関が少ない。かつて、それでも、ぼくはセックスしてくれる相手を見つけ、かれらに紹介したことがある。性欲は十分に健全であって、足の不自由な方にどれほど感謝されたことなのか、今回の乙武騒ぎで、ぼくはそれを思い出しました。

 ゲスな人たち、ゲスなメディアに言いたい。ない知恵で下品な噂を広めてくれるな。どうせなら、ない知恵を絞り、思いやりのある想像をしてくれ。かれは肢体不自由者の星です。希望です。あまりケチなことを言うんじゃない。

 最後に乙武の奥さま、いつもかれを支えてくれてありがとう。これからもよろしくネ!

 ぼくは、貴方の夫を弁護する謝罪に、苦悩を思うと、感謝を禁じえません。



※最後に今週のイチ押し本。それは。田中角栄を書いた慎太郎の「天才」 かれの“偉業”の歴史的評価や功罪は別として、ムチャ面白く、十分に考えさせられる本です。読んでね。



●3月29~4月3日 ~いつもどおり淡々と~

 今週は珍しく外出が少ない。ということはいつもどおりに淡々との毎日。メインは復活「これでいいですか愛川町」の原稿書き。紙幅は少ないし、書くべきテーマは多いし、加えてメリハリもほしいし、ああでもないこうでもないで3日かかってしまった。それで、他はといえば、草木の勢いのある時期、草むしりとか、障害者訪問とか、片付けとか、むろん読書に打碁とか……。外出らしい外出は「笛と太鼓の音楽祭」のみ。第7回にして、やっとそれなりの人出でした。何しろ外国の方(今年はネパール)からわざわざ演奏にみえるので、ほっとしました。この町は何をやっても住民が認識するのに時間がかかります。7回目にして行政(教育委員会)がそれなり後援するぐらいですから。

 一方、ニュースです。こちらは、結構、考えさせられました。まずは「民進党」のスタートですが、どうなるか。何しろ同名の台湾の人気政党は「同じ名で迷惑」なんて思っているぐらいです。ぜひぜひ、結束力と新鮮な政策力を見せ、名誉挽回してください。できるかなあ。岡田では暗いし、迫力に欠けるし。つぎは児童福祉法や虐待法の改正です。例えば「臨検」の強化など買う点はあるけど、それで何が変わるの。法を変えるのは良いけど、問題はそれを運用する人が変わるか、でしょ。気になるのは、役人的、つまり不作為、消極的な対応が変わるか、です。そして議員はそのあたりを十分に配慮したかです。また一つは、ハンセン病の隔離裁判を裁判所が謝罪したニュースです。これにはぼくの個人的な感慨があります。実は仲人の医師の父親がかつてハンセン病の名医でありました。その関係でむかしハンセン病の隔離地を訪れたことがありますが、一口で言えば「なんと異様に暗い環境なのか、そんなところに人を一生閉じ込めるとは」 そのせいか、謝罪までの道のりの長さを思う。これまた役人的な反応の鈍さからきた隔離だったか。

 最後は、「外国人労働者100万人」時代の到来です。これは。人口減社会と労働者不足が言わているおり、良いことか悪いことなのか微妙です。その意味は、中学、高校、あるいは大学でしっかり勉強しておかないと我々の就職先がなくなることです。欧米、たとえばスウェーデンやノルウェーでは100万人突破は「教育へ力を入れよ」でありました。気づく人が少なく、心配になります。

 終わりに、今週のおすすめ本ですが、正直、いま読んでいる本は面白くない。でもカタくてもよいなら一冊。「丸山真男と田中角栄」です。この丸山真男、60年安保のころ講演していました。高校生のぼくも聴きにいったけど、そんな世代にはなにか得るものがあるかも。チラリ、青春への悔悟もふくめて。



●オマケ ~どこまでが人権~

 「保育園落ちた、日本死ね」のブログを契機に、幼児を抱えるママさんたちが国会に押しかけたりで、いま待機児童問題がやかましい。だが、あえて誤解や批判を恐れずいえば、この問題どこまで国の、あるいは行政の問題だろうか。

 ぼくは、日頃は、政治の本質は弱者の代弁と訴えている。では待機児童を抱えた母親は弱者か。「日本死ね」とのたまい、幼児をダシに使うせいか、どうもそう見えなくなってしまう。

 だから思う。そもそも子どもを生むのは個人の問題だろう。産みたくても産めない人もいるし、すすんで産まない人もいる。子育てについてもしかり。選択は自由という点、個人の問題だ。仕事についてもまたしかり。働くのも働かないのも個人の問題。こちらも働きたくて働く人、働かないとやっていけず働く人、自ら子育てに専念したくて働かない人。選択は自由だ、ということは個人の問題だ。ということはもしかして国の問題ではない。

 ついで、もう一つそもそも、そうした選択の自由の中で、よほどに体力や気力があるのか、堂々と子を産み、堂々と仕事もするなど、そもそも彼女らは社会的に強者ではないのか。

 皮肉でない。ぼくは若くして妻を失い、子育てもしたから知っている。毎日がヘトヘトで、政治家よ、助けてくれ、と叫ぶ気力もなかった。第一、子育ては親の責任と決めていた。

だからつい想像する。幼児を抱え、同じように子育ては、とくに子どもが3歳までが勝負と決め、仕事を少し控え、頑張っているお母さんもいる。かの女たちは幼児を見せつけて主張する。日本死ね、の態度もどう思う。「黙々と頑張っている人が弱者だ」そう書くと、反論が聞こえる。「待機児童は300万人もいるのよ、個人の問題じゃないッ」「ウーッ、わかった」認めよう。そう社会的問題だ。で、その社会ってどこ。会社に行くのに預ける保育園がない、という社会問題だとしたら、もしかして、企業が保育園を用意しない会社問題かそれとも儲からないから保育を作らない増設問題か。いずれにしろ、子のない方、あるいは自己責任で子育てをしている方には無関係です。

 えっ、違うって、もっと広く国民全体の問題だって。300万人もいるから。ウッ、ウーッ、それも認めよう。たしかにそう考える国もある。たとえば北欧に。でも、その場合どうしたか。受益者負担の原則にしたがった。待機児童を国の問題としたから、税に跳ね返った。権利の主張は義務も伴う。

 ふと、そんなことを思うのは、日本死ね、が聞き苦しく、見せつけが見苦しかったせいか。ぼくは、あまりの声高は苦手です。つい正義に偽善を思う。待機児童問題の旗手に政治資金の疑惑があるのはそのせいでしょうか。

 ともあれ、待機児童問題でまず着手すべきは応益負担です。一定規模以上の会社には保育施設の設置の義務付けを。民間には保育園を作りやすい法の整備を。ぼくの願いです。

 こうした問題は、あまりに権利の主張で語ると、ことの本質を見失う。義務を忘れる。慎ましく一歩一歩歩いて行こうよ。ぼくは強い女が苦手です。というか、控えめに頑張っている、本来の意味で強い女が好きです。ぼくは古い人間なのだろうか。